青春シンコペーション


第4章 コンクールに姫乱入?(3)


「井倉……」
視線が交わった瞬間、さっと彩香から笑顔が消えた。
「あの、彩香さん、どうして……」
賑やかな雑踏に紛れてしまいそうな声で井倉が訊いた。

「あら、あなたも七夕見物?」
彼女は井倉の正面に立つとじっとその顔を見据えた。
「コンクールの本番前だというのに、随分と余裕なのね」
彩香は見下すように言った。
「余裕だなんて、その……。僕はハンス先生に頼まれて、それで……」
艶やかな紫の地に色彩豊かな蝶が舞う。浴衣姿の彼女は美しく、井倉は視線に困っておどおどした。

「奇遇ね。私もバウメン先生に日本の伝統的なお祭りを見ていただこうと思って案内していたところよ」
そこへ、そのフリードリッヒ・バウメンが現れて、爽やかな笑顔で挨拶した。
「日本のお祭り、とても素敵ですね。フロイラインからいろいろ教わっていたところです」
「そ、そうですね。それで、お祭りは楽しめましたか?」
井倉が訊いた。
「もちろんです。日本の民族衣装、夏の着物が着れてうれしいです。日本の良い物もたくさん買いました」
彼は富士山の絵葉書や掬った金魚を見せ、祭と書かれたうちわをパタパタと振って見せた。
「それはよかったですね」
井倉が愛想笑いを浮かべて言った。

「ところで、君もピアノコンクールに出るんですか?」
フリードリッヒが訊いた。
「ええ」
井倉が頷く。
「ほう。二人はライバルなんですね。残念だけど、君に勝ち目はありませんよ。コンクールに優勝するのはこの彩香さんですからね」
フリードリヒはちらりと彼女を見て言った。彩香は自信たっぷりに頷いて見せる。井倉は僅かに俯くと唇を噛んだ。
(そんなこと……言われなくたってわかってる)

「いやあ、それにしても驚きました。こんなところで出会うなんて、二人はあの伝説の織姫と彦星のように魅かれ合っているのではないかと思いましたよ。でも、ただのライバルだって言うなら、まだ私にも彩香さんのハートを射止めるチャンスがあるということですね」
「まあ、先生ってば、冗談がお上手なんですのね」
そう言って頬を赤らめる彩香を見つめて、井倉は呆然とした。

(彩香ちゃん……。君はもしかしてバウメン先生のことを……)
二人は傍から見ていると、とても先生と生徒という間柄には見えなかった。まるで仲の良い恋人同士のようにしか……。
(バウメン先生はショパンコンクールで優勝した実力の持ち主で、金髪碧眼のハンサムで僕よりずっと背も高い。この人は僕の持っていないものをみんな持ってる。叶わない。とても……)
ふさふさとした大きなくまの毛が、風に揺れて井倉の頬に触れた。その脇を小さな子ども達がヨーヨーをつきながら駆けて行く。
「僕は……」
何かを言おうとして、彼は口を噤んだ。彩香がじっとこちらを見ていたからだ。

「井倉はライバルでも何でもありません。ただの同級生ですわ。いえ、元同級生と言った方がふさわしいわね。彼、音大を退学させられたんだし、私とはもう関係ありませんのよ」
「はは。関係ありませんか」
フリードリッヒが笑いながら復唱する。
「それに、私の真のライバルは……バウメン先生、あなただと思っているんですのよ。いけませんか?」
「そいつは光栄ですね。ぜひ、ライバルとして腕を競い合いましょう」
二人は顔を見合わせると、うれしそうに笑った。

「そもそも井倉、あなたの実力ではコンクールの本番に残っただけでも奇跡なのよ。せいぜい恥をかかないように練習することね」
「彩香さん」
「それじゃ、バウメン先生、参りましょうか」
フリードリッヒは笑顔を向けると、彼女の肩に腕を回して歩き去った。その姿はあっと言う間に人混みに紛れて見えなくなった。
井倉はしばらくの間、そこから動けずにいた。雑踏が消え、色彩が暗いヴェールに包まれて行くような気がした。

「あ! 井倉くーん!」
ハンスが呼んだ。
「おお、井倉、こんなところにいたのか」
黒木や美樹も急ぎ足でやって来た。
「逸れちゃったかと思ったのよ。ラムネ飲む? それともかき氷食べる?」
「いいえ、僕はその……」
どっちつかずの返事をして、井倉は前方の闇を見つめていた。そこに彩香が着ていた浴衣の紫が……。幻の蝶が飛んで行ったような気がしたから……。

――井倉とは何の関係もありません

頭の中に彩香の言葉が木霊した。

――彼、音大を退学させられて

露天の看板である旗が閃き、ずらりと並んだお面が急に怖い顔になってこちらを睨んだ。

――せいぜい恥をかかないように練習することね

(それだけなのか。君にとって僕の存在は……ただの同級生)
望んではいけないとわかっていた。でも、せめて友達だと言って欲しかった。
――せいぜい恥をかかないように
(弾けない。彩香さんのようにはとても……コンクールでなんて……)


だが、時は無情に過ぎて行った。3日間なんて、本当にあっと言う間だ。
演奏する順番は事前の抽選によって決められ、井倉は1番に演奏することになっている。

そして、当日。
「よくも悪くも全力を尽くせ」
黒木が励ます。
「いつものように弾けば大丈夫です。1番なんていい番号じゃないですか」
ハンスも微笑する。
「大丈夫。ここにいるみんなが、あなたの味方よ」
ネクタイの結び目を直してやりながら美樹も言った。
「ありがとうございます」
もうあとには引けないのだと決意を固め、電車に乗った。


会場のホールは地下鉄の出口から50メートルほど行った場所にあった。歩道も広く、よく整備された道だった。道の両側には品のいい店が並んでいる。
「あれ? このお店何ですか?」
ショーウインドーに飾られたきらびやかな衣装を見て、ハンスが訊いた。

「どうやらフォトスタジオのようですね」
黒木が答える。
「『あなたも夢のプリンセスに』……ですって。変身して写真が撮れるみたいね。前にテレビで見たことあったけど、こんなところにあったんだ」
美樹が感心したように言った。
「誰でもプリンセスになれるんですか?」
ハンスが訊いた。
「ええ。貸衣装とメイクをしてもらって30分で変身できるんですって。背景もお城とか馬とかが用意されていて臨場感を出してくれるみたいよ」

「いいですねえ。美樹ちゃんもプリンセスになりませんか? 二人で記念写真を撮ろうよ」
「えーっ? そんなの恥ずかしいよ」
早歩きで通り過ぎようとする美樹を追い掛けてハンスが言った。
「いいじゃない。ねえ、何ならウエディングドレスでも……」
二人はまだ正式に結婚している訳ではなかった。故にハンスはそれを望んでいて、隙あらば、よくそんなことを口にしていた。

「王子様か……」
井倉は少し遅れてショーウインドーの前を通り掛った。そこには美しい姫の衣装を着たマネキンと、騎士の格好をした男のマネキンが白馬の前で剣を構えていた。
「ナイトか……」

――君は勇敢な騎士となって姫を救うのです

そこにあるマネキンが彩香の顔に見えて、井倉はドキリとした。


ホールはすぐそこだった。会場に入ると受付を済ませ、出番を待った。一種独特な緊張感が伝わって周囲のざわめきが小さくなる。

――君はナイトになれますよ

(もしも騎士になって、彩香ちゃんを迎えに行くことができたなら……)
ショーウインドーの中のプリンセス。
そのイメージが井倉の緊張を解した。
(現実では到底無理だけど、曲の中に生きる君のイメージ。それだけは僕のものだ。あのガラスの向こうの世界。その美しい幻想のすべてをピアノで表すんだ。きっとできる)

番号が呼ばれた。
彼は不思議と緊張していなかった。すんなりと舞台に上がり、ピアノの前に進んだ。そして、軽く目を閉じ、姿勢を整えると光の中で曲を弾いた。

流れるように美しく舞う光の蝶。それを捕まえようとする者の憧れ。祭りの中の彼女。
そして、風の中で彼を待つ可憐な姫君としての彼女。流麗な光と影のバラード……。彼は弾くことを楽しんでいた。今はまだ技巧では到底、彩香には叶わない。しかし、いつか彼女に認めてもらえる、そんな日を信じて……。今は夢を見ることにした。ガラスの向こうの騎士となって、夢の世界を巡るのだ。今出せる全力の力。その腕にいつか愛しの姫君を抱くことを夢見て……。

演奏が終わり、井倉が通路に出て来た。彩香は5番。井倉とは丁度入れ替わりである。観覧席を通り過ぎた時、フリードリッヒと理事長の姿が目に入った。が、井倉にとって、そんなことはもうどうでもよかった。彼にとってのコンクールはもう終わったのだ。あとは結果を待つだけである。

「井倉君、よかったわよ」
ロビーに出ると早速美樹が言った。
「ありがとうございます」
彼はさっぱりとした顔をしていた。
「ほう。どうやら、憑き物が落ちたといった顔をしているな」
黒木も言った。
「憑き物ですか?」
井倉が怪訝な顔をした。

「とにかく、あとは結果待ちだね」
ハンスの言葉に、井倉が肩を窄めて苦笑する。
「ご期待に添うことはできないと思いますけど、今、僕にできる最大限の力で弾きました。結果がどうなろうと、もう悔いはありません」
「大丈夫ですよ」
ハンスがその肩を叩いて言った。

「はは。時にはそうやって開き直ることも必要だ。それにしても、どうやってふっきったのかね?」
黒木が訊いた。
「それは……あの騎士の人形です。ハンス先生がアドバイスしてくれたから……。実は、この間、七夕行った時、偶然彩香さんに会ったんです。それで、すっかり自信がなくなってしまって……。でも、今日、ここに来る時見たナイトが……それを思い出させてくれたんです」
「そうか。ナイトか」
黒木が感心したように唸る。

「どうですか? 黒木さんもカッコいい騎士になって奥さんと記念写真を撮るっていうのは?」
ハンスが誘う。
「ははは。それはいい」
と、美樹の方を見る。彼女は慌てて首を横に振った。
「わたしはいやよ」
「ウーン。どうしても駄目ですか?」
ハンスが粘る。
「だって……あんなきらっきらのドレス似合わないもん」
「じゃあ、美樹ちゃんが王子様になるってのは?」
ハンスは何とか彼女を説得して自分のメルヘンを実現したいようだった。そんな二人を見ていると、井倉の心も明るくなった。

「ところで……」
黒木がそっと耳打ちした。
「彩香君の演奏を聴かなくていいのか?」
「え? ええ。いいんです」
井倉は一瞬だけ鼓動が高鳴るのを感じた。聴きたくない訳ではなかった。が、今彩香の完璧な演奏を聴いたりすれば、きっとまた心が折れてしまうだろう。それは、結果が出てからで十分だ。今はまだコンクールが終わったという余韻を楽しんでいたい。井倉はさり気なくロビーの時計を見た。丁度彩香の演奏が始まる頃だ。別室では、その演奏の模様が中継されていて、関係者や報道記者などが皆、画面に見入っていた。

「すごいな。優勝は5番のお嬢さんに決まりだな」
そんな囁きも聞こえて来た。
(やっぱり彩香さんはすごいや。けど、僕だって精一杯弾いたんだ。今はもう忘れよう)

「おや、黒木教授」
記者の腕章を付けた中年の男が近づいて来て頭を下げた。
「お久しぶりです。聞きましたよ。このコンクール、あなたの身体問題と学生の大学復帰を賭けて思い切った勝負に出たそうですね」
「勝負だなんてオーバーですがね」
黒木が軽く手を振る。

「いや、今回はその話題で持ち切りなんですよ。結果が出次第、記者会見をお願いできないかと……。それで、どうですかね? 自信のほどは? あなたの愛弟子は勝負に勝てそうですか?」
「それは、無論自信があります。しかし、まだ他の出場者の演奏も続いておりますし、審査の結果は出ておりませんので、コメントは控えさせていただきます」
他の何人かの記者達も集まって来た。

「井倉君、こっちへ……」
ハンスが彼を隠すように引っ張って記者達から見えないところへ連れて行った。
「ああいうのに捕まると厄介ですからね」
「ありがとうございます」
井倉はそう礼を述べたが、内心は穏やかでなかった。
(そうだった。このコンクールでの勝敗によっては黒木先生にも迷惑が……)
「大丈夫。きっと良い結果が出ますよ」
落ち込んでいる井倉を励まして、ハンスが言った。

「まだ時間がありますし、何か飲みませんか?」
「外に行く? それとも販売機で何か買って来ましょうか?」
美樹も訊いた。
「いえ、僕は別に……」
井倉が俯く。と、急にまたロビーが華やかになった。演奏を終えた彩香とその取り巻きの一団が現れたのだ。その中にあの理事長とフリードリッヒの姿もあった。

「やっぱり彩香さんのピアノが一番でしたね」
「そりゃそうよ。優勝は彩香さん以外には考えられませんもの」
例によって彼女の取り巻きの女達が騒ぎ立てる。
「ありがと」
彩香も応える。
「本当に、あなたこそプリンセスだ。我が校の花です。希望です。そして、未来ですよ」
理事長がしきりにごまをする。その脇でフリードリッヒも彼女を絶賛した。
「やはりあなたは逸材だ。本番でこれほどの実力を出せるとは……何しろショパンコンクールで優勝したこの私が言うのですから間違いありません」
それを聞いて周囲がわっと歓声をあげる。

「彩香さん……」
離れたところからそんな彼女の様子を見ていた井倉が呟く。
「ふん。何がショパンコンクールだ。本当は大した実力もないくせに……」
販売機で買ったジュースの缶を弄びながらハンスが言った。その声が聞こえたかのようにフリードリッヒがこちらを見た。ハンスは無視してジュースを開けると一気に飲んだ。

「井倉さん、あの……さっきの演奏、とってもよかったです」
不意に呼ばれて振り向くと、そこには一人の少女が立っていた。見覚えがある。それは彩香の取り巻きの一人だ。
「あの、ありがと。君は……」
井倉は名前を思い出せずに訊いた。
「鹿島です」
「ああ、ごめん。僕、人の名前覚えるの苦手で……」
「いえ、いいんです。それじゃ……」
そう言うと彼女はまた急いで彩香の元へ駆けて行った。


「あ、いた! お兄ちゃん」
エントランスの扉が開いて数人の人達が入って来た。その中に澄子がいた。いや、彼女だけではない。井倉の両親も一緒だった。
「親父! お袋も……どうして」
「どうしてってことはないだろう?」
父がむっとした顔で言う。
「澄子に聞いたのよ。今日があんたの大切な日だって……」
母の言葉に父親も表情を崩して言った。
「応援に来たんだ。がんばれ!」
「お父さん……」
あれほど音大に入ることを反対していた父が自分を応援してくれている。井倉は胸が熱くなるのを感じた。

「ところで、お兄ちゃんはいつ出んの?」
澄子が訊いた。
「出番はもう終わっちゃったんだ」
「えーっ? ひどいよ。何で待っててくれなかったの」
「そんなこと言ったってしようがないだろ。順番決まってんだから……」
「なーんだ。がっかり。せっかくお兄ちゃんのピアノの演奏が聴けると思ったのに……」
「ごめんな」
井倉は妹の頭を撫でた。

「それで、結果はいつ出んの?」
母が訊いた。
「4時です」
「何だ。まだ大分あるな。ちょっとその辺でもぶらついて来るか」
「でも……」
井倉は周囲を見回した。いつの間にか大分人の数が増えている。それに紛れてハンスや黒木の姿も見えなくなっていた。


自動販売機の前で遭遇したドイツ人二人は少々もめ事になっていた。互いのことが気に入らないのだ。
「では、君は、私の実力がないと、ショパンコンクールで優勝したのがまぐれだったとでも言うのか?」
フリードリッヒが眉を吊り上げて言った。
「そうでなければ、よほど他の出場者のレベルが低かったんじゃないのかな」
ハンスは空になった缶をぽいとごみ箱に投げ入れて言った。
「嫉妬なんて見苦しいよ。私の実力は世界に認められているんだ。ほら、こちらの音大の理事長さんにだってね」
フリードリッヒに指名されて理事長はにこにこと頷き、その実力について述べ立てようとした。が、それをハンスが打ち消した。

「悪いけど、芸術をお金で買うような人の評価なんて信じられないね」
「何だって? それじゃあ、この私の実力も金で買ったものだとでも言いたいのか!」
フリードリッヒが怒鳴る。
「違うの?」
ハンスは澄まして応じる。
二人の間に一触即発の雰囲気が漂った。周囲にいた何人かがざわめき始める。

「おい、あれはフリードリッヒ バウメンじゃないのか?」
「ああ、確かショパンコンクールの……」
「もう一人の金髪は? 見たことないぞ」
記者がスクープのにおいを嗅ぎつけてこちらへ向かうのが見えた。まずいと思ったのか理事長が二人を別室の方へ連れて行く。

「ははは。聞いたかい? こんな辺境の島国に住む日本人にだって私のことは知られているんだ。そもそも君はコンクールにだって出たことがないんだろう? 僻みや妄想でものを言ってもらっては迷惑だ。取り消したまえ」
「へえ。実力がすべてのこの世界で、己の実力も測れないような奴が大層な口を利くじゃないか。恥ずかしいとは思わないのか?」
ハンスも負けてなどいなかった。
「己の実力だって? それこそ、君の思い上がりだろ? そういうことは他人が判断するものだよ。たとえば、こういったコンクールのように大勢の審査員が公平な判断でね」

「なら、審査員を揃えてどっちが上か判断してもらおうじゃないか」
ハンスが言った。
「残念だな。私はこのコンクールが済んだら、ドイツへ帰らなければならないんだ」
「逃げるのか?」
ハンスが睨む。
「はは。負け犬の遠吠えなんて君、見苦しいよ」
「よく言うよ。僕の実力を恐れているのはそっちだろ?」
「恐れる? この私が」
二人はぎんと睨み合った。どちらも引き下がりそうにない。

「ならば、こうしたら如何です?」
それまで沈黙を守っていた理事長が口を挟んだ。
「今からお二人にこのコンクール会場で弾いてもらう。丁度審査の先生方も揃っておいでだ。審査は他の出場者と同様に採点してもらい、どちらが上かを判断してもらえばいいでしょう」
理事長の言葉に二人は頷き掛けたが、フリードリッヒが異議を唱えた。
「しかし、私はあまりにも有名ですからね。このまま出たのでは、すぐにあのショパンコンクール優勝のフリードリッヒ バウメンだということがわかってしまう。そうなれば、審査員の方々の心に動揺が走るかもしれません。つまり、君にとっては圧倒的に不利になるかもしれないということですね」
微かな同情と侮蔑をこめた視線でハンスを見下ろす。

「さすがはバウメン先生。とても公平で細やかなお気遣いでいらっしゃる」
理事長が媚を売る。
「なら、正体がばれないようにすればいいんだろ?」
窓の外を見ていたハンスが言った。
「ばれないようにだって?」
「お互い変装して舞台に立つっていうのはどうだい? 幸い、すぐそこに衣装を貸してくれるスタジオがあったからね。そこで正体がわからないような格好に変装すればいい」
「なるほど。それなら、公平にできそうだ」
フリードリッヒも承知した。

「それでは、早速審査員の先生方に打診しましょう。いや、お二人の素性は明かさず、出場者が二人増えたということで、このまま審査をしてもらいます」
「なるほど。万が一、学生よりも順位が下ならばそれこそ世間に顔向けできなくなるでしょうね」
フリードリッヒが皮肉を込めて笑う。

「いいだろう。僕は優勝できなければピアニストを辞めてやる」
「わかった。ならば、私も約束しよう。もしも君や学生に負けるようなことがあれば、ショパンコンクール優勝という看板を取り下げる」
「面白い。で、どっちが先に弾く?」
ハンスが訊いた。
「コインで決めよう」
そして、トスは理事長が行い、フリードリッヒが17番、そして、ハンスが18番のエントリーナンバーで弾くことになった。

「曲は?」
「一曲はショパンの曲にしよう。君の一番得意な『英雄ポロネーズ』はどうだろう?」
間髪入れずにハンスが言った。
「いいのか?」
「構わないさ。僕だってあの曲は得意だからね」
「では、もう1曲の方は自由選択としよう。私はリストの超絶技巧練習曲から……」
「僕はベートーヴェンのソナタで行く」
二人は握手を交わし、理事長はすぐに書類を作成して審査員室へ向かった。

「ハンス、あんなこと約束しちゃって大丈夫なの?」
廊下で待っていた美樹が不安そうに訊いた。
「心配しないで。そうだ。井倉君達には君から上手く言っておいてくれ。僕はしばらく準備で忙しいから……発表の時に会おうって」


そうして、ハンスとフリードリッヒは会場を出て隣のフォトスタジオに入って行った。そして、同時に叫んだ。
「30分で仕上げてください。衣装をお借りしたいんです」
「は? でも……」
戸惑っている店長に二人は事情を説明し、金を積んで強引に口説き落した。
「それで、どんな衣装になさいますか?」
店員がにこやかに訊いた。二人は一瞬顔を見合わせてからはっきりと言った。
「プリンセスでお願いします」